下妻歴史探訪




◆◆◆ ◆◆◆ 1. 原始古代〜鎌倉幕府の成立) ◆◆◆ ◆◆◆

 ■ 下妻地域の先住民 (旧石器時代・先土器時代)


  下妻地域に人類が初めて姿を現したのは、今から約1万5000年ほど前の縄文時代以前とされ

  ています。 その痕跡は高道祖桜塚遺跡からの槍先出土という形で残されています。


 ■ 鳥羽の淡海(とばのおうみ) と 縄文文化


  紀元前7000年頃の下妻地域は、万葉集にも歌われた鳥羽の淡海と呼ばれる広い湖沼と湿地帯

  に覆われていました。 それは、現在の砂沼・旧大宝沼を含め旧明野町・旧石下町にも及ぶ広大

  な湖沼でした。  現在の下妻市街地・大宝地区・騰波ノ江地区・高道祖地区・旧石下町豊田地区

  はその湖沼に突き出た大地となっており、現在の砂沼や大宝沼跡は複雑に入り組んだ入り江とな

  っていました。

  縄文時代の土器出土は、北山権現遺跡・神明遺跡・弥平太(若柳)遺跡・大木田向遺跡・根崎前

  遺跡・大木工業団地遺跡などから見ることができます。 また、縄文時代の偶像信仰として使用さ

  れた土偶は、弥平太遺跡・中居指遺跡から出土しています。


 ■ 弥生文化 と 古墳文化


  西暦200年〜300年、稲作が伝わりだした弥生文化の遺跡としては、大木溜井遺跡・ 大木田向

  遺跡があります。 大木田向遺跡については、縄文遺跡と複合していることから長い間集落を構

  成していたと考えられます。

  西暦400年を過ぎ中央に大和朝廷が成立した頃、日本各地のムラが大きくなり国が作られるよう

  になりました。 下妻地域は、新治国筑波国の二国に分かれていたようです。

  下妻地域に古墳が造られるようになったのは6世紀中頃からで、現在確認できる古墳としては、

  浅間塚古墳一基だけとなっています。 浅間塚古墳は市内黒駒に位置し、全長40m・後円部高さ

  5mの前方後円墳で、当時この地域に田畑を開いた豪族の墓と考えられています。

  市内には他に、館の御殿古墳・中の塚古墳・桜塚古墳群・八幡様古墳・お玉稲荷古墳群・観音山

  古墳・諏訪台古墳・前河原古墳群・千草古墳群・西原古墳群などがありますが、盗掘や地域開発

  により破壊されているため、残念なことに詳細の確認はできていません。


 ■ 奈良・平安時代 の 下妻地域


  645年の大化の改新後、「常陸国」が成立し前史の 新治国・筑波国 は常陸国を構成する小国、

  新治郡・筑波郡となり、現在の下妻市の地名起源である「下真郷」は常陸国新治郡下真郷となり

  ました。

  10世紀に入り、常陸国の分立・解体が進み新治郡も六区に分立し、下真郷は「下津真庄」・(「下

  妻庄」*1) という新しい行政単位に変わり鎌倉時代に至ります。

  下妻庄=下妻荘 荘は荘園のことで、公領であった常陸国の各郡とは違い、常陸平氏が荘園領

  主として管理を全面的に委任されたことになります。 この下津真荘の立荘には、在地領主であっ

  た常陸平氏(平 直幹)の存在が明白で、筑波山西麓・桜川一帯・旧関城町一帯・信太流海(霞ヶ

  浦)にも及ぶ広大な土地を「村田庄」として治めました。

  1174年、村田庄から分立した下津真庄を父直幹から相承した 平 広幹(下妻広幹)は、常陸平

  氏流下妻氏として自立した武家となっていきます。

   *1 当時、下妻地域の呼名として「下真」・「下津真」・「下津間」・「下妻」が挙げられます。

      いつどのように変わっていったかは不明であるが、下真郷を基本にして下津真・下津間・

      下妻と呼名されていったと考えるのが妥当と思われます。


 ■ 鎌倉幕府の成立 と 下妻氏


  この時代になると京都を拠点とした平氏政権も陰りが見え始めてくる。 1159年に起きた平治の

  乱のあと、平 清盛と対立していた 源 頼朝 の父 義朝 が尾張で殺害されると、幼少だった頼朝は

  伊豆国の平氏流北条氏の元に流された。 その時、頼朝を預かったのが 北条時政 であった。

  その20年後、北条時政 の娘 政子 を妻としていた頼朝は、平氏方であった時政の同意も取付け

  平氏打倒を決意することになります。

  同年、頼朝は強大な勢力で平氏方だった 常陸国佐竹氏討伐 と 常陸平氏族討伐 のため、常陸

  国府(現石岡市)に入るが結果的に佐竹氏は滅びず、圧力を加えるに留まった。

  1181年、平 清盛 が死去すると常陸国内では、常陸国信太荘を根拠とする 志田義広 が頼朝打

  倒を企て、下妻荘領主 下妻広幹 も一味として加担する。  この時、反義広派に立ったのが後に

  下妻荘の地頭を任せられた下野武士で藤原氏流の 小山朝政 である。  また、下野武士と共に

  志田義広 を攻めた人物に 下妻四郎清氏 という名があるが、下妻広幹 との関係は不明とされて

  いる。

  1192年、鎌倉幕府が成立し征夷大将軍となった頼朝は、この 下妻四郎清氏 を 下妻広幹 の同

  族とみて、その功績により下妻荘の没収を免じたとの説もあるが、実際には 下妻広幹所領没収・

  お家断絶となり、広幹は御家人として幕府に仕えることになります。 しかし、翌年 北条時政 に反

  抗したとの罪で打ち首となり、常陸平氏流下妻氏は広幹一代で消滅することになります。

  同年、下野武士である藤原氏流の 小山朝政 が 志田義広 を討追した功績によって常陸国村田

  下荘(下妻荘)及び下妻宮(大宝八幡宮)の地頭職を与えられ、下妻地域は小山系氏族の支配下

  に置かれ、後に藤原姓下妻氏を名乗った下妻長政・下妻政泰へと相承されていきます。



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