下妻歴史探訪




◆◆◆ ◆◆◆ 2. 鎌倉時代〜南北朝時代 ◆◆◆ ◆◆◆

 ■ 北条氏の台頭 と 下妻地域


  1199年、頼朝が53歳の生涯を閉じると長男頼家が相続するが、次第に 北条時政・北条政子 ら

  北条一族の政権主導へと変わってくる。

  13世紀に入った下妻荘においても、前地頭の藤原姓下妻氏から北条一門である大仏(おおらぎ)

  氏 へと変わっていったが、下妻荘を大仏氏が地頭として掌握した後も下妻荘内一部の地では、

  前地頭の藤原姓下妻氏の一族が知行したとされている。


 ■ 大宝八幡宮(下妻宮) と 下妻氏


  大宝元年701年に 藤原時忠 によって創建されたとされる大宝八幡宮(下妻宮)。  鎌倉時代の

  社殿は、鳥羽の淡海に連なって存在した大宝沼 (大正7年干拓により消滅) のほとりにありまし

  た。

  同社は、修験道の祖といわれる 役小角(えんのおづの) が702年に騰波ノ江の古沢黒島近くに

  出た怪しい青火を鎮めたことに始まり「舟守」の社として信仰を集めたと言われています。

  また、頼朝は1189年に下妻宮を常陸平氏流の 下妻広幹 に祭事を司らせたが、前述にあるよう

  に 北条時政 への謀反により広幹が討たれると 小山朝政 を下妻宮地頭職につかせました。

  小山朝政の孫にあたる 長政 は、下妻姓を名乗るようになり長政の長男 下妻政泰大宝城を居

  城として南北朝時代には南朝方に味方し、北朝方の 足利尊氏 らと戦うことになります。


 ■ 下妻地域 と 親鸞


  鎌倉幕府が成立すると、仏教界にも新しい動きがみられるようになりました。 崇高な祈祷中心の

  天台宗・真言宗 などは貴族層には受け入れられたが、庶民層の欲求を満たすものではなかっ

  た。 そんな中、鎌倉六僧と呼ばれる祖たちが現れます。

  浄土宗=法然・浄土真宗=親鸞・時宗=一遍・臨済宗=栄西・曹洞禅宗=道元・日蓮宗=日蓮

  である。  こうした鎌倉新仏教のうち、浄土真宗親鸞 によって下妻地域にもたらされます。

  1207年、親鸞は朝廷の念仏停止の命令により越後(上越市)に流されるが、赦免されると妻恵信

  尼と子信蓮坊と共に東国(現関東)へと移住することになります。 上野国佐貫荘(現館林市)から

  常陸国に入り下妻荘幸井郷(現下妻市坂井)に居を構えたとされているが現在の同地域には、伝

  承や遺構は一切残っていません。

  親鸞が下妻荘に居住した遺構としては、幸井郷から南東に離れた小島郷(現下妻市小島)にあり

  ます。 それが小島草庵跡(下妻市小島字四体仏)です。 草庵跡には、親鸞御手植えと伝えら

  れる大銀杏樹があり、後に小島郷から稲田郷(現笠間市稲田)に移った親鸞を慕い稲田に向けて

  枝を伸ばしていることから、現在では「稲田恋しの大銀杏」と呼ばれています。

  親鸞は、下妻小島郷に約3年間居住し、下妻地域での浄土真宗布教活動を活発に行い多数の門

  徒を獲得しています。 現在の下妻市栗山にはこの地域の第一門徒とされる 明空 開基の 栗山

  高月院光明寺 があり、河内郡飯谷村宿付(現下妻市半谷字宿付)には明空の弟子 道意 により

  建立された 飯谷山半谷院光照寺 があります。


 ■ 鎌倉幕府滅亡から南北朝の動乱へ


  鎌倉時代後期には、幕府は 北条得宗 による執政体制にあり、全国の守護の半数以上を北条氏

  一門が独占していた。 また、北条一門は地頭として全国の要地の郡・郷・荘をも直接支配するこ

  とで勢力の拡大をはかっていた。下妻荘においても 大仏朝直の孫である 宗宣 が知行していた。

  (大仏朝直は北条時政の孫である)

  ところが、1274・1281年の二回にわたる元軍の襲来(元寇)での政局不安や御家人の離反から

  幕府は次第に武士層からの支持を失っていきました。

  そのころ朝廷では、大覚寺統と持明院統が皇位を交代する両統迭立が行われており大覚寺統の

  後醍醐天皇が即位し、鎌倉幕府の打倒をひそかに目指していた。 しかし、討幕計画は二度(正

  中の変)・(元弘の変)ともに発覚、後醍醐天皇は捕われ隠岐島に流され、持明院統の光厳天皇

  が即位しました。

  後醍醐天皇の討幕運動に呼応した 楠木正成 らが幕府軍に抵抗すると幕府御家人である 新田

  義貞・足利尊氏 らが幕府から寝返り諸国の反幕府勢力を集め、1333年 後醍醐天皇 は隠岐島

  を脱出し討幕の兵を挙げ、新田義貞・足利尊氏 らと共に北条一族を滅ぼし、鎌倉幕府が滅亡す

  ることになります。

  京に迎え入れられた後醍醐天皇は、光厳天皇の即位と幕府・院政・摂政・関白を廃止し、政治の

  中心で天皇が親裁する機関・国司・守護を併置しました。 「建武の新政」である。

  鎌倉幕府の滅亡後も、旧北条氏の守護国を中心に各地で反乱が起こり、足利尊氏は後醍醐天

  皇に 北条時行 討伐のための 征夷大将軍 の任命を求めるが、後醍醐天皇はその要求を退け、

  尊氏を征東将軍に任命し、帰京命令を出す。 尊氏は後醍醐天皇の帰京命令を拒否してそのま

  ま鎌倉に居を置き新政から離反すると、離反しなかった武士で最強の軍事力を持っていた 新田

  義貞 討伐を後醍醐天皇に対して要請する。

  後醍醐天皇は尊氏のこの要請を受けず、逆に新田義貞に足利尊氏追討を命じて出陣させるが、

  新田軍は敗北し、1336年に足利軍が入京する。 後醍醐天皇は比叡山に逃れるが、陸奥国

  の 北畠顕家 や 新田義貞 の軍が合流して足利軍を破り、足利軍は九州へと落ちて行った。

  同年、九州から再び東上した足利軍は、摂津湊川の戦いで新田義貞・楠木正成を破り持明院統

  の光厳上皇を奉じて入京、ここに新政は2年半で瓦解することになります。

  入京した尊氏は光厳上皇の弟 光明天皇 を即位させ「北朝」が成立する。 また、後醍醐天皇は

  比叡山を降りて足利方と和睦し、光明天皇に三種の神器を渡すが、京都を脱出し吉野へ逃れて

  吉野朝廷「南朝」を成立させ、先に光明天皇に渡した神器は偽器であり自分が正統な天皇である

  と宣言する。

  ここに、吉野朝廷「後醍醐天皇=南朝」京都の朝廷「光明天皇=北朝」が対立する南北朝時代

  が到来し、1392年の南北朝合一まで約60年間にわたって南北朝の動乱の時代が続くことにな

  ります。



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